昭和48年不明 不明 テープ№48-037A面-2
入力者松本正宏
あのね、昨日、私、「私の生活はオープンライフである」という事を頂いた。大坪総一郎の生活はね。どういう事か分からん。だから昨日末永さんに、こげな事を頂いたがどういう事かと聞かせて頂いたら、「道が開ける」という意味らしいですね。オープンライフという事は、いうならば親先生の生き方、いうならばガラスばりの生活だという意味だそうですね。そのガラスばりの生き方にならせてもろうたらいわゆる道が開ける。例えばここに経済なら経済の面なんかは、もう一目瞭然にガラスばり。ね。これだけは内緒にしとったろうというのがさらさらない。ならこの私の私生活においてもそうです。もう、私の側におるなら私の信心の私の生き方の全てが分かる。
私の生き方には内緒事がない。ですからもう、なら夜でも夜中でも私の部屋にでん皆さんがこそこそ入ってくるのは私が内緒事でんしよるならいかんでしょ。しかも、みんなが平気で入ってこれるほどしに私はオープンライフです。最近は特にそれを自分で感じております。オープンライフである、私の生活はオープンライフである。ね。心にここだけは見せられないといったようなね雰囲気を持っておったり、ね、何か心にしこりを持っておったら、だからこの、いわゆる開けっ放しの生き方というのがね、しかもそれが誰に見られてもなら、私の場合は部屋においでた人達が親先生でもこげんとこがあるじゃろうかと思われるようなところもあろうけれども、それでもやっぱり開けっ放し。ですからそこんところをいよいよ誰が見られても聞かれても成る程と合点がいくようなおかげを頂きたい。 先日、あの、久美子さんがここでお届けをしておりましたが、御本部で学院中にその、ある、金光教の先生と学院が一緒であった。御大祭の時に神饌物のね、神饌物の御用をさせてもらった。ところが、お野菜なんかはこう、はっぱをとったりいらんところをきったりのけたりするでしょう。だからそういうところ、捨てなければならんから、久美子さんが捨てにいきよった。そしたら、金光先生という方が「ちょいとちょいと待ちなさい」と仰った。「何ですか」というたら、「上に新聞をかぶせて、そして捨てなさい。でないと信者がもしみた時にいけんから」とこう言われた。それを聞いておったその心ある、幾人かの修行生がこれが今の金光教の今の信心だというてがっかりしたと言うのである。ね。信者にみせちゃならんけんで綺麗に見せなんと、だから、信者に見せるところだけは綺麗に見せて、かげではどげんきたなかったっちゃよかという意味なんです。
なら、合楽の場合はどうかというと、成る程ならもう本当にお野菜やら果物やら腐ったりしてこう、散らかしておることが良い事じゃ決してありません。けれどもねオープンライフ。やっぱり。ね。合楽の。だから勝手に行って、はあ、お供え物しよったがこげなお粗末になっておるけんでというて、心汚す人があるかもしれません。けれども、それこそ頂き過ぎておりますからついそういう事にもなりますけれども、それが本当に綺麗に整理整頓が出来た、頂けれる、なるという事はもっと素晴らしい事なんですけれどもね、私はある教会の生き方を知っておりますけれども、息子さんが寝てござるとね、ほらちょっとおきなさい、総代さんが参ってみえておるがのというてから、おこしよる。総代さんにみせんならんけん、はよおきなならんといったような信心ではもう、これは実におかげが小さくなる。こういう生き方でも。例えば人から見て例えばおかしかっても、やはり、この、オープンでなからなければならないならないという事です。
ね。もう、開けっ放し。しかもそのどういうなら合楽でです、おかげを頂く人達が奥のほうへ入れば入る程、合楽では素晴らしいという事を言う人があるのです。ただ、両面に接したからでしょう。けれどもね、私はそういう心がけもね、おかげ、いわゆるオープンのおかげを頂く為にはね、そういうそういう心の稽古をしなければなりませんね。
どうぞ